2004年04月13日
「存在の耐えられない軽さ」というミラン・クンデラの小説があります。映画にもなりましたし、このタイトル自体がかっこいいので、ご存じの方も多いかと思います。
私が前々から気になっているのは、この原題は、もともとはフランス語のはずですが、私はフランス語がわからないので、英語の原題を引っ張ってくると、「THE UNBEARABLE LIGHTNESS OF BEING」なのです。つまり、「耐えられない軽さ、存在の」ということなんです。存在というのは、耐えられないほど軽いものなんだ、というわけです。
ただ、これを「存在の耐えられない軽さ」と訳すと、「存在ができないほどの軽さ」という意味に解釈してしまうと思います。原題に忠実に訳すならば、「耐えられない存在の軽さ」か「存在の、耐えられない軽さ」になると思います。
これを訳した人がどうして、「耐えられない存在の軽さ」としなかったのか大いに謎です。
どうでもいいことなのですが、前々から気になっていたので…。
2004年03月16日

今日の毎日新聞の広告に出てたのですが、西山 里見「講談社『類語大辞典』の研究—辞書がこんなに杜撰でいいかしら」という本が出版されているみたいです。「まき起これ! 辞書論争。真実の前にタブーはない!」と、すごい意気込みなんです。
類語辞典なんて実用的であればそれでいいと思うのですが、アマゾンの読者レビューを読むと、どうもこの本は実用的でもないらしいんです。にもかかわらず、「学者・文学者が絶賛」しているので、「その欠陥を語釈・用例から編集の杜撰さまで、徹底検証する」ということのようです。
西山里見さんという方がどういう方かは存じませんが、この本は講談社に対する批判にとどまらず、それを支持してた学者や文学者を敵に回すことになるわけで、とても勇気のある方だと思います。実りのある論争になって、立派な辞書が作られるようになるといいのですが…。
ちなみに私は類語辞典は角川のを一冊持っていますが、ほとんど使ってなくて、もっぱらシソーラス(類語)検索のお世話になっています。実用的という観点から言うと、これが一番でしょう^^
いちおう、MyBlogJapanで検索してまだ誰も書いてなかったので、記事にしたのですが、念のためにBulkfeedsで関連記事の検索したらすでにありました。
【関連記事】
難儀日記さんの、噛み付かれるほど認知度高いかな?
いわれてみるとそうですね。そんなに有名な辞書なのでしょうか?
2004年03月04日
今晩は某所で手に入れた1枚1000円のステーキ肉を堪能しました。日頃は、「悪衣、悪食を恥じることなかれ」(だったかな?)という論語の言葉通りの生活を送っていますから、たまにはこんなのもいいでしょう。おいしかったです。
この超高級肉(私にとって)に舌鼓を打ちながら思い出したのが、『なぜ世界の半分が飢えるのか—食糧危機の構造』という本。一時期「なぜ〜なのか」というタイトルの本をたくさん読んでいた時期がありました。この手の本は、最後まで読んでも結局タイトルの「なぜ」がよくわからない本が多いのですが、この本は今でも覚えているくらい、「なぜ」にきちんと答えていました。
「なぜ世界の半分が飢えるのか」といいますと、この本によると、要するに、肉を食べる人がいるから、ということになります。
こまかい数字は覚えていませんが、先進国で一回の食事に使われる肉の量を育てるには、途上国の20回分の食事の量に相当する穀物が必要なんだそうです(手元に本がないのであくまでもうろ覚え)。ですから、先進国の食卓にならぶ肉、牛であれ豚であれ、こうした動物を育てる飼料の穀物をすべて途上国に回せば、数値的には飢えは解決できるのだそうです。
理屈としてはよく理解できるけど、なんだかおかしい。例えば北朝鮮にあてはめて考えてみると、北朝鮮に飢えが存在するのは、先進国がどうのこうのといった理由ではないような気がします。
といったようなことをあれこれ考えながら、1枚1000円のステーキ肉が私のおなかへ入っていきました。
2004年01月25日
前回の記事に重大な誤りがあったので、再度。
ちょっと気になったので、「あにゆきとてちてけんじゃ」で検索したところ、検索結果は0。国語の教科書に載るくらいだからきっと有名な詩のはずなのに、おかしいなあと思ってあれこれ調べたところ、正しくは、
「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」
でした。こちらに詳しい解説があって、
「あめゆじゅ」は「雨雪」、雪のことです。
「とてちて」は「取って来て」、
「けんじゃ」は「賢治さん」という呼びかけです。
私の記憶のいい加減さにあきれかえっています。題名も「雪の朝」ではなく、「永訣の朝」でした。
全文も掲載されていたので、十数年ぶりにあらためて「永訣の朝」を読み返してみたところ、なんだかものすごい詩でした。全文を引用するのもあれなので、一部分をここに引用しようと思ったのですが、どの部分を引用すればいいかわからないくらいとてつもない詩なので、興味のある方は全文をご覧ください。
それにしてもこの詩を中学でどのように教えてたのだろうか。
【関連ページ】
宮沢賢治:作品一覧
2003年07月23日

今日は思わず家の本棚にあった、「少年A」この子を生んで… 父と母悔恨の手記 という本を一気に読んでしまいました。読むつもりはなかったのですが、パラパラとめくっているうちにやめられなくなりました。この本は数年前に神戸でおきた酒鬼薔薇(サカキバラ)事件の犯人のご両親がお書きになったものです。酒鬼薔薇事件とは、殺害した少年の遺体の頭部を、警察への挑戦状とともに学校の正門に置いたあの事件です。
私も人の親となったので、いったいこの犯人がどういう家庭環境のもとで育ったのだろう、親の教育に問題があったのではないか、と読み進めましたが、この手記を読むかぎり、ごく一般的な家庭、ご両親だったようです。精神鑑定の報告書を読むと、「幼児期に母親からの虐待を受けた」とありますが、お母さんのほうは、「お尻をぶったことがある」と書いているだけで、若干のニュアンスの違いがありますが、かりに親の教育に何かしらの問題があったとしても、あのような犯罪を犯すことはできないだろうと思いました。とにかくこの犯人は殺害した少年(彼の弟の友達)の遺体の頭部を自分の部屋の屋根裏部屋に置いていたというのですから。
この犯人は独自の考えを持っていて、「この世の人間はすべて私である」と考えていたようです。ですから自分がおこした事件に対して何の罪の意識もないそうです。さらに、性的欲望と殺人が結びついて、猫の死体を解剖しながら、「勃起し射精までした」と供述しています。親の教育以前に、先天的な肉体的精神的異常があったと考えざるをえません。
殺害された被害者とその家族、殺害した犯人とその家族、彼らの苦しみの総体が今も癒されることなくそのままであることを思うと、とても暗い気持ちになりました。
【関連書籍】

地獄の季節 「酒鬼薔薇聖斗」がいた場所

